BSSの目指すもの


社長インタビュー

社長インタビュー

中途採用の一社員としてBSSに入社されましたが、学校卒業から入社までの経緯を教えてください。

「2度の倒産による失業。拾ってくれたのがBSSの創業者でした」
商業高校を経て、情報処理の専門学校へ行きました。あまりマジメな学生ではなく、午前中に授業を終えた後は遊びやアルバイトを楽しんでいました。情報処理という分野に大して興味をもたないまま3年間が過ぎ、資格だけは一応取得し、卒業しました。卒業後は、図面作成の業務として電機関係の会社に入社しましたが、そこは現場主義の会社でした。ヘルメットをかぶって煙突に登ったり電線を引っ張る毎日。情報処理の仕事をまともに経験しないまま、入社7ヶ月でその会社が倒産しました。半年ほどフラフラとしていたのですが、やはり情報処理の仕事をやってみたいという気持ちになり、別の会社へ就職。その後転職しましたが、転職先も入社後10日で倒産。その会社で出会った同僚の紹介で、BSSの創業者が経営していた会社の仕事を手伝うようになり、1996年にBSSに入社しました。

1994年のBSS創業から2年目のタイミングですね。当時の会社はどんな雰囲気でしたか。

「人を愛する創業者から学んだ人付き合いのスタンス」
創業者はとにかく人が好きで、よく社員の話を聞いてくれる、距離の近い存在でした。社外でも同業種から異業種まで多くの人と交流をもち、豊富な人脈から多様なビジネスを展開していました。ただ、私自身は派遣常駐という形態で社外にいることがほとんどだったので、それほど頻繁に接していたわけではありません。それでも、社員をはじめ、関わる人をとにかく大切にする姿勢には学ぶことが多かったように思います。

入社当時の佐藤さんは、どのような社員だったのでしょうか。

「夢も目標もない、同期一のダメ社員」
私が入社するタイミングで、同時期に4人の社員が入社しました。向上心や成長意欲がある他のメンバーに比べると、自分はダメ社員でした。とくに大きな夢があったわけでもないし、技術者として実現したいことも特別ありませんでした。ましてや、会社のトップにのぼり詰めようなんて気概もありませんでした。創業者からも「お前は何がやりたいんや」とよく言われていましたね。ただ目の前の仕事にはひたすら誠実に、堅実に向き合ってきました。

当時はどのようなモチベーションで働いていたのでしょうか。 

「車のローンを返すための仕事から、お客様のための仕事へ」

2社目の会社では手取りは約11万円。ローンを組んで240万円のいい車を買って、返済のために働くような感じでした(笑)。ローンがあったので、もっと稼ぎたいと思うようになり、創業者に「どうしたら給料があがるんですか?」と尋ねると、「もっとレベルの高い仕事をしろ」と言われました。ちょうど入社して1年くらい経った頃だったと思います。当時はオペレーターとして、マニュアル通りのことを、ミスなくこなしていくのが私の仕事でしたが、現場で過ごす時間が長くなるにつれ、もっとお客様のニーズに応えた商品を開発したり、現場の声をシステムに反映させたい、という気持ちが自然と湧いてきていました。

そこで、レベルの高い仕事って何だろう?と考えるようになりました。お客様のニーズに応えるにはどうしたらいいかと考えると、やはり技術を磨きたいと思いました。そこでオペレーターの仕事に加え、新しい仕事にも挑戦しました。新しい部署をつくるタイミングや、新しい仕事が入った時には積極的に手をあげて、現場で経験を積んでいきました。

仕事への姿勢が変わったことで、なにか自分自身に変化はありましたか。

「密なコミュニケーションで鍛えた人間力」 
新しい技術を習得していくことで、できる仕事の幅が広がったのはもちろんですが、思いがけずヒューマンスキルも磨かれていきました。オペレーター以外にも設計など3つの職種を経験し、いろんな職種の人とコミュニケーションを取ることで、いままでとは違った角度で物事を見るようになったと思います。会社全体の仕事の流れを知ったり、違う部署の人がどんな想いで働いているのか、どんなことが大変だと思っているのかを感じられたのは貴重な経験でした。結果的にお客様への説明の仕方や、ものごとの伝え方といった人間的な部分が、技術以上に磨かれていったと思います。

人としても技術の面でも向上していく中で、係長から課長、部長と役職がつくようになりました。人の上に立つ者として意識していたことはあるのでしょうか。

「なんでも話せる、近い存在でありつづける」
役職がつくようになって意識したのは、人の話をよく聞くことですね。また、対面でコミュニケーションする時間も意識して作っていました。派遣で社外にいる社員とはなかなか対話する時間もとれません。東京で働いている部下もいましたが、少しでも対話する時間を持ちたくて、休みの日に東京から帰ってきた社員と小倉駅で会ったりしましたね。これは代表取締役社長となった今でも変わっていません。私は社内では実はいじられキャラなんですが(笑)。なるべくオープンに、距離の近い存在であるように意識しています。これは創業者の姿勢を引き継いでいる点のひとつですね。

順調にキャリアアップしていた矢先、創業者がご病気になられました。その後、佐藤さんがトップになるまでの経緯を教えてください。  

「人生を変えた創業者の一言」

病状は思わしくなく、当時は創業者の存在がすごく大きかったので、このままBSSはなくなってしまうのではないかと思いました。そして2012年12月、病院に創業者のお見舞いに1人で行きました。その時、病床の創業者から「病気が治ったらお前を育ててやる」と言われました。ここではっきり「後継者」にすると言われたわけではありません。それどころか40近くになるのにビジネスの知識が皆無に近い自分を、創業者は心配していたんだと思います。そして結局その言葉は叶わず、2013年1月に創業者は亡くなり、それは実現できませんでした。ですが、自分はこの一言で「自分がやらねば!」という気持ちになりました。94年の創業から20年周年を迎える直前の出来事だったのですが、自分が30周年、そしてその先もこの会社を存続させていく、という決意を固めました。

当時の役職はまだ課長で、後継者と目される方は何人かいらっしゃいました。ですが創業者が亡くなった後、いろいろな混乱や行き違いなどで、創業者を慕うかなりの数の社員が一斉に退職しました。当然人手が足りないわけで、いろんな事をやらなければなりません。未経験だった営業の分野で奮闘することもありましたし、慣れないことばかりでした。リーダーを失った中での挑戦は、当然失敗もたくさんありました。それでも、病床で言われた「お前を育てたい」の一言があったから、がむしゃらになれたのでしょうね。その後すぐに部長に、1年半後の2015年に取締役、2017年5月に代表取締役社長に就任しました。

今後のビジョンをお聞かせください。

「人に寄り添おうとする”やさしさ”から生まれるサービスで、人生に豊かな時間を」

創業者が築いてきた、”人を大事にする文化”はやはり大切にしていきたいです。私たちが提供しているサービスや人材というのは、我々が考える「やさしさ」のひとつの形だと思っています。


たとえば弊社が開発したソフトウェアを導入することは、単にお客様の仕事の効率化を助けるだけではないと考えています。以前行っていた現場で、ある社員の方が定年後の再雇用で出社された日のことを印象的に覚えています。昨日まで役職付きで活躍していた方が、単純な作業を手作業で5〜6時間かけて処理されている。本来もっと人間的なパフォーマンスができる方なのに、もったいないですよね。そこで我々が開発したサービスによって、その作業は10分程度で済むようになりました。残りの時間は、その方が本来もつ力を発揮できる時間となります。ITの技術で代替できることはITに任せて、その方にしかできないパフォーマンスを十分に発揮できる環境をつくり、いきいきとした時間を過ごしてほしいという気持ちから提案したサービスです。

仕事の効率化を願う背景には、そのサービスを手にする人の豊かな時間を願う我々がいます。今後、この会社を、創業者から受け継いだものを守りながら、トレンドの先端技術を習得し、”やさしさ起点のサービス”を積極的に世の中に展開できる自律的なチームの集合体にしたいと思っています。

編集後記

現在約50人の社員を抱える会社のトップである佐藤さん。代表取締役社長という役職についた経緯を聞くと、はじめは「他にやる人がいなかったので…」と謙遜されるほど、物腰のやわらかい謙虚な方でした。学生時代から若手時代まで、特にやりたいことがなかったと話す佐藤さんでしたが、目の前の仕事にはとにかく誠実に向き合ってきたとのこと。それほど興味がないことを毎日コツコツ継続するというのは、誰にでもできることではありません。人に語れる大きな夢や、やりがいを感じる仕事を探し求めてしまいがちですが「いまここ」にあるものに丁寧に向き合う姿を、きっと創業者をはじめ多くの方が見ておられたのだと思います。23歳から41歳まで派遣常駐という形体で働き、取締役、そして代表取締役社長へと駆け上がった驚異のスピード出世のかげには、コネもカラクリもない「ふつーの男性」の、何よりも尊い地道な努力がありました。
 そうやってコツコツと信頼と技術を積み重ねてきた佐藤社長の『今こそ求められるのは人に寄り添い時代の変化に即した新しい発想や新しいテクノロジーの導入と、それにチャレンジする勇気を持った人材だ』真摯に未来を語る姿勢。それこそが、多様な背景をもつ社員たちがついていっている理由だと思いました。

 
インタビュアー:木田名奈子(2017年8月)